アン・ピョンム牧師(韓国民主化運動の指導者--復活節のメッセージが春の太陽とするなれば、そのメッセージを聞いた魂は、春の新芽である。しかし、復活節は、春がもたらすものではなく、二千年前に起こった、一つの歴史的な事件がもたらしたものである--人類の歴史にも、長い氷河期があった。その時も太陽がなかったわけではない--。しかし、まだ歴史の春は来ていなかった--その当時ですら、体は死んでも、精神は死ぬことはないと思われていた--しかし、冬は続いた--最後の武器は死であった--真理は必ず勝つとか、事必帰正とかいったことも、この死の前では、すべて虚言であった--このようなとき、イエスがこの世にやって来たのである--新教出版社、新教新書二一八、アン・ピョンム「現存する神」一九八五年七月三一日、第一刷、七六、七七頁--) イエスのいないところでは、今も同じです。結局、力、力が物言います。残念ですが、キリスト教会においてもある程度当てはまっているようです(--イエスが力の象徴になっている信仰がそうです。イエスは死んでも死なない、フェニックスのようなキリストであると信じる信仰がそうです--イエスは死んだが、それで一巻の終わりではなく、復活というどんでんがえしがあっ、と言うことではないのです--) 神が全能ならば、どうして悪が栄え、不当に苦しみに陥らざるを得ない人々が世に満ちているのか(--この世に不義と悪党が乱舞しても、神が全く介入しないとき、われわれは、『おまえたちの神はどこにいますのか』という問いに、どう答えるのだろうか。他人に答えることが問題である前に、自身の信仰の基盤が崩れることこそが問題である。」(前掲書九二頁--) なぜ、福音書の著者は、あえて無力な「神の子」の姿を描いたのでしょうか?(--人間には到底神を理解するすべなど無い。したがって、神自身が、人間の認識圏内に入って来ることによってはじめて、神に接近する道が開かれるのである。この告白こそが、受肉の信仰である。」 同一〇二頁--) 人間の持っている善悪の価値観、強いこと、成功すること、美しいことが良いことで、弱いこと、失敗すること、醜いことが悪いことという考え方が真っ向から否定されています-- ボンヘッファー牧師の獄中での作品の一つが紹介されています。
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