2001/03/04 「弱みに振り回される」 マタイ 4:1〜11  (MP3)   
ひろさちや(--色即是空”形に見えるものは空しいぞ”--空しいものが見える--ここに高価なコップがあるとする。ここに小便を入れる。このコップを洗い煮沸消毒後ビールを注ぐ。これをどうぞと言われたときに飲めるか--飲める人は少ない--人間とはこのようなものだ--コップは変わらないのに受け取る人によって見方が変わってくる--こちらの心の反映だということを知っていることが大事だ--) イエスが荒野で誘惑にあう(--神の民でも誘惑にあう--) 悪魔の誘惑”サタンにいいように振り回されている”(--あなたのためにということを一貫して打ち出している--あなたには許されている--あなたの思い通りに行きなさい--天使の手はあなたを支える--このキーワードは”あなた”である--悪魔はいつもあなたのことだけを考えてくれる存在です--) 私は信じています(--自分の信仰だけを信じていると他者の信仰を排除してしまう--都合が悪くなると他者の責任になすりつける--) 神がともにいてくださる(--私は駄目な人間だが受け入れられる--) 菅原 時保(スガワラ ジホ 鎌倉建長寺派管長.--わしは山寺の小僧として育ってな--檀家の家に行ったとき--赤ん坊が板の間を這いながらおしっこしていた--赤ん坊の後ろにはしゃもじが落ちていておしっこがかかっていた--何も知らない母親はそのしゃもじでお櫃にご飯を移していた--食事が出たが箸をつけずに帰った--七日過ぎてその家に行った--甘酒が出た--何倍も飲んだ--母親は”この前来た時あなたがご飯を食べなかったので余ったご飯を甘酒にした。こんなに飲んでくれてうれしいよ。ありがとう”といった--”頂戴しなければいけないものはいただくようになっている”--) 名言をたくさん残した禅師が臨終のとき弟子が死にたいですかと聞いた(--死にたくないを繰り返し死んでいった--)

2001/03/11 「本当が見えない」 マタイ 12:22〜32 (MP3)   
ボン・ヘッファー(--「『パリサイ人』というのは、『ある特定の時代の偶発的な歴史的現象ではない』。むしろ『善と悪についての知識のゆえに神に感謝しつつ、神の栄誉のために、彼の隣人と自分自身とをさばくところの、まったくあっぱれな人間』である。) ファリサイ(--パリサイ--”分離する”という言葉から来たもので、罪人と分離した歩みをします、という主義の人たちを意味するようになりました。清いことを求め、正しいことを実行しようとする「あっぱれな」人たちです。見た目には、良い人と映ります。文字通り「善の塊」です--) イエスが誰から見ても「悪と戦う」人だったら、決して十字架にはつけられなかったはずです。なぜ、イエスは十字架につけられねばならなかったのか?それは、イエスが善と戦っているとしか映らなかったからです。聖書を読むときには、最初からイエスは「善玉」、イエスに敵対する人たちは「悪玉」として読んでいました。こういう「悪玉」になってはいけませんという読み方をして来ました。実は、私たち自身が心の内でイエスに敵対しているのではないか、ファリサイ派になっていないかをいつも検証することが大事です。イエスについている人たち、「善玉」、イエスに反対する人たち、「悪玉」という割り切り方では、イエスの十字架の真意を受け取ることができない、ということを自覚しなければなりません。”ファリサイ派”はわたしだ 藤木正三牧師(ヨルダン社、「福音はとどいていますか」、六八頁--清い人格は人を高めます。美しい行為は人を感動させます--そのように生き得ない、それどころか罪深い人の一生は、一体どういう意味があるのでしょう--彼もそのままの姿でひとつの大切なことを語っていることを見落としてはなりません--清さ、美しさ、正しさを求めるだけでは、人間は十分ではないのです--そう思うのは人間の傲慢--救いを求めてこそ、人間は人間です--) 聖霊に逆らう罪(--K・バルト--ただ一つ赦されない罪がある。それは、赦されるということを信じない態度、すべての罪の赦しなどあり得ないと主張する人間の傲慢である。赦しがないと言い張ることが聖霊に逆らう罪となる--神はご自分がお創りになった人間を一人も滅ぼそうとは考えてはおられない。一人残らず神の国に迎えようとされているのに、人間の方で、あの人はダメだ、とか、見込みが無いなどと決め付けることは、慇懃無礼ふいんぎんぶれいふの罪になります。顔では従っていて、心は反抗している、こんな大きな罪はありません。)

「分類キーワード(人を裁きたくなったとき)」

2001/03/18 「その弱さゆえに」 マタイ 16:13〜28 (MP3)   
主題(受難の予告) 出エジプトの気持ちがわかった ヘテロが天国の鍵を預かる(--カトリック教会法王存在の根拠となっている--天国の鍵のことはマタイ福音書にしか書かれていない--イエスがこのことを直接言われたかどうかはほとんどの聖書学者が疑問視している--) マタイによる福音書(--マルコ、ルカには教会という発想は少ない。マタイが教会ということを強く主張している--教会を任された第一人者がペテロである--) 聖書における歴史的な事実はペテロは後半になると姿が薄くなりパウロが目立ってくる。パウロがキリスト教神学を作り上げてきた--) ペテロ”ケパ”(--”岩”というニックネームである--正式にはバルヨナシモン”シモンの子ヨナ”) ペテロの告白”あなたはメシヤ生ける神の子キリスト”(--イエスは”あなたにこのことを言わせたのは天の父だ”といわれた--) 久世そらち牧師(札幌北部教会「イエス二十二人の証言」--シモンペテロから見たイエス--ペテロは日本名なら”岩石男”とでも呼ばれたろうか--) イエスが受難予告をすると”そんなことがあってはなりません”とペテロが諌めはじめた。イエスはサタンよ引き下がれと言われた(--ペテロにとって都合の良いメシヤ”自分が社会的にえらくなる”を思い描いていたことに対する叱責の言葉--久世牧師は”福音書はシモンの否認をあからさまに語る。それはシモンの罪を告発しているのではない。教会の罪責の告白なのだ。シモンを筆頭として教会は主を裏切った罪を告白し崩れ折れる存在でしかないのだ。その悔悟の涙の中で始めて復活の主の救いのメッセージを受けるものとされる--) ペテロにかんして四つの福音書に共通しているのはこの叱責と主を裏切ったことが書かれている。福音書記者はペテロのことを告発しているのだろうか(--そうではなく教会の姿を現している--ペテロの姿が象徴的に教会の”かしら”ととらえられているのはこのペテロの弱さを隠してはならないと福音書記者が示されたからである--) 遠藤周作(「生き上手、死に上手」--正宗白鳥の言葉からの引用”誰にでも知られるくらいなら死んだほうが良いという秘密がある。この誰にも言えない秘密が神と出会う場所なのだ”--神と向き合えるのもこのくらい洞穴の中である--秘密があるから神を求めるのだ--秘密などないと思う読者がいられたら羨望を感じるが、他方ではその人たちはなんというつまらぬ表面的な人生しか持たなかったのだろうと考えてもしまう--)

2001/03/25 「旅する神の民」  マタイ 17:1〜13  (MP3)   
主題(主の変容) キング牧師(1968年4月4日、Martin Luther King, Jr.はテネシー州メンフィスのモテルで暗殺されました。”エライアス牧師の説教”--ああなんという死に方だろう--ああなんという生き方だろう--) 山上の変貌”今見たことをだれにも話してはならない、しかし,復活後には話してよい”(ペテロは山を下りなければならなかった--山に登るとは礼拝に参加したと同じことだ--山を下りた時には素晴らしい礼拝経験により絶望せず望みを持ちつつ生活する--) キング牧師のように思いがけないところで挫折することがある”イエスの十字架も一つの挫折かもしれない”(--合理的に解釈することはできない--神様の計画は私たちの理解をはるかに超えている--個人の業は決して空しくならない--神の国は確実に進められていく--) キング牧師が暗殺される前夜の説教(我々の前には困難な日々が残されている。それは今の私にとって問題ではない。私はすでに山の頂に登ってきた。私は心配していない。私も長生きしたいと思う。私は今そのことに心を配ってはいない。わたしはただ神のみ心を行いたいと思っている。神は私が山に登るのをお許しになられた。そこから四方が見渡せた。約束の地も見た。その地に達することができないかもしれない。私は幸せでせぁる。なぜなら私は主の来臨の栄光を見たのだから。)


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