2001/02/04 「神殿は必要か」(仕事に執着するな) マタイ 21:12〜16  (MP3)   
石川先生も”好きねー”(これだけやっているのに誰も何も言わないという状況に対して、自分の道楽だと割り切ると気持ちが楽になる、たまたま褒める人がいればもうけものだと思う) イエスが神殿で暴力(「イエスの宮清め」--私たちは一生懸命礼拝しているのだけれどもその礼拝がイエスにぶち壊されるような礼拝をしているかもしれない--自分たちは”いいことを一生懸命しているのになー”ということを考えさせられる--イエスが暴力を振るわれたということを書いている唯一の箇所です--教団総会で紛争が発生したときこのイエスの暴力について質問した人に回答したある牧師は”これはイエス様の愛のパホーマンスだ”といったがおかしいなーと思った。イエス様がなさったら暴力でなくて凡人がやったら暴力であるなんておかしい。これは明らかに暴力である。なぜイエス様がこのようなことをなさったのか考えてみる必要がある--暴力はいけないという前によく考えてみる必要がある--良いか悪いかの基準で読むと誰が見ても暴力です--神殿は聖別されたところで警備が厳しかったのにこのところでの暴力でなぜイエスは逮捕されなかったのか--) 聖書を読むときの姿勢(--イエス様の側に立って読むのではなく、イエス様が対された相手側の立場に立って読む必要がある--神殿では一番良いものをささげなさいという掟がその趣旨を歪められ障碍を持ったものは良くないものとして神殿”礼拝”で排除されるようになった--この神殿で商売している人たちはただ単にあこぎなことをしている人たちではなかったはずだ”礼拝している人たちに奉仕していると思っていた”が障碍を持っていた人を差別していた--本当の祈りの家とは神が気にかけておられる一番小さくされたものへの配慮のはずなのにこの人たちは強盗の巣としてしまったと憤られたのだ--私たちはすぐそばに困っている人がいるのに気付かず自分たちはいい礼拝をしていると思っているのではないか--イエスはこの暴力の後困っている人たちを癒された--乳飲み子や子供たちがイエスを褒め称えているのに祭司たちには騒音としか聞こえていない--このような差別感覚を備えている礼拝に憤られたのだ--) 信仰者の傲慢(--私は正しいことをしている、あの連中はだめだという思い上がりしなる) ひろさちや(宗教学者--「仏教に学ぶ八十八の知恵」--仕事、家業に専念するな--出家できないものはランク下と小乗仏教は言っている。”今までのカトリックの考え方と似ている”--大乗仏教はこだわり、執着を捨てることを教える--人間は一所懸命すればするほど考えが狭くなっていく--成功した人は成功しなかった人を努力が足りないからだと判断し思いやりを持たなくなる”時には弱者への糾弾となる”--いくら努力しても報いられない人たちがいる”生来もたらせられた障碍を持った人たち、あるいは失敗した人たち”--) 自分たちが一所懸命にしているのは好きでしているのだ 礼拝(目的と手段が混同しないように--宗教が戦争を引き起こしているという矛盾を知る必要がある--このことを知らないとイエスによって礼拝がぶち壊されるかもしれない)

「分類キーワード(悲しいとき)」

2001/02/11 「五感で信じる」 マタイ 13:10〜17  (MP3)   
信教の自由を守る日 喩の意味(--マルコによる福音書”弟子たちはイエスの言葉を理解できなかったとしている”--マタイによる福音書は”弟子たちは理解できた”として扱っている。あの人たちとはユダヤ教の人たち、またはマタイの教会の聞いても悟らない一部の人たちと考えられている--) 彼らが悟らないため(--逆説的表現--耳で聞いただけで理解していない--) 松原泰三(南無の会「一期一会禅の心に学ぶ」--見性成仏--成仏とは死ぬことではない--仏になるとは完全な人間になることだ--足りないのは愛情だ--足りないのは見る角度だ--その人なりの癖がある--くせに自分が気が付く--もう一人の自分に気が付く--) 宗旦(茶の湯 --ある寺の坊さんが椿の花を小僧さんに託し宗旦に送った--椿の花はもろい--小僧は途中で花を落としてしまった--落ちた花と枝を持って宗旦を訪ね、お詫びした--宗旦は花筒に枝、その下に花を置いた--落下の風情となった--) 私たちが神様に気付くとはゆとりを持つことが大事 賛美とは感じて答えること(--主よ--) 癖を恥じるのではなくまた始まったなーとゆとりを持ってみる(--ユーモアにつながる--)

2001/02/18 「時間は誰のもの」 マタイ 12:2〜14  (MP3)   
清水敬三牧師(--麦畑と言ったら何を連想するだろう--イエスたちが食べた麦は小麦だったろう--) 小麦を摘んで食べた(--安息日にはしてはならない労働としてパリサイ人は文句を言った--マタイはイエスの弟子たちは大祭司だからよいと書いている--律法違反ではないととらえている--マルコによる福音書は安息日は人のためにあると書いている--) 星川牧師(--巣鴨教会--「礼拝と音楽」記事--時間を含めすべては神のものですしかしおうおうにしてすべて自分のものと錯覚する人間の忘れっぽさに警告を発し神に立ち返るために確保された修正時間、それが安息日というものだったと思います--自分のために使わない時間を確保する--安息日には自分のために生きることをやめ、神のもとに立ち返ろうではないか--安息日に良いことをしようではないか--) スケジュールに追われて私が何のために生きているかを忘れてしまわないように(--忙しいとは自分を滅ぼすと書いてある--生きることは手段です--) 礼拝(--良し悪しは説教次第ではない--祭り”楽しい”であってよい--) ジャンバニエ(ラルシュ共同体 --祝い事とレクリエーションとお互いが密接に結び合っているという事実です--祝い方を学ぶのは大事なことです--一つの体であることを祝います--) 礼拝の中で行われる平和のあいさつ(--誰が来たのかを横並びで感じるとき--)

2001/02/25 「問いかけるイエス」 マタイ 5:17〜20  (MP3)   
荒井 献先生(”あらい ささぐ”--恵泉女学園大学教授--NHK出版「問いかけるイエス」--イエスは--神の国の譬えの教え--相手に対する問いかけとして提示し--この問いかけに対する答えを自ら提出することはせず。それへの応答をむしろ相手にその主体性と責任において提示するように促すのがイエスの言行の特徴なのだ--福音書記者も資料として採用した伝承を介して問いかけるイエスに対する応答のわざとして福音書を編んだものである--福音書を読む--私自身の応答の試みとなる--) 聖書を読む目的(世界の祝福の源となれ--弱くされている人々に神の祝福が届くように--) 古い民は目的と手段を混同した(--契約を守っていることが大事だと思い、弱くされている人を罪びととして排除した--) イエスは排除された人”罪びととされた”の友となった(--これゆえにイエスは十字架にかけられた--) 二つの死によって聖書はできてきた(--旧約はバビロン捕囚という民の死、新約はイエスの死--) アンピョン牧師(韓国の神学者 --ガリラヤ教会を作った--権力者に対する抵抗--悪政を見過ごしたまま礼拝はできない--私がやってもどうせどうにもならないと絶望しない--希望が見えてくる)


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