石川先生も”好きねー”(これだけやっているのに誰も何も言わないという状況に対して、自分の道楽だと割り切ると気持ちが楽になる、たまたま褒める人がいればもうけものだと思う) イエスが神殿で暴力(「イエスの宮清め」--私たちは一生懸命礼拝しているのだけれどもその礼拝がイエスにぶち壊されるような礼拝をしているかもしれない--自分たちは”いいことを一生懸命しているのになー”ということを考えさせられる--イエスが暴力を振るわれたということを書いている唯一の箇所です--教団総会で紛争が発生したときこのイエスの暴力について質問した人に回答したある牧師は”これはイエス様の愛のパホーマンスだ”といったがおかしいなーと思った。イエス様がなさったら暴力でなくて凡人がやったら暴力であるなんておかしい。これは明らかに暴力である。なぜイエス様がこのようなことをなさったのか考えてみる必要がある--暴力はいけないという前によく考えてみる必要がある--良いか悪いかの基準で読むと誰が見ても暴力です--神殿は聖別されたところで警備が厳しかったのにこのところでの暴力でなぜイエスは逮捕されなかったのか--) 聖書を読むときの姿勢(--イエス様の側に立って読むのではなく、イエス様が対された相手側の立場に立って読む必要がある--神殿では一番良いものをささげなさいという掟がその趣旨を歪められ障碍を持ったものは良くないものとして神殿”礼拝”で排除されるようになった--この神殿で商売している人たちはただ単にあこぎなことをしている人たちではなかったはずだ”礼拝している人たちに奉仕していると思っていた”が障碍を持っていた人を差別していた--本当の祈りの家とは神が気にかけておられる一番小さくされたものへの配慮のはずなのにこの人たちは強盗の巣としてしまったと憤られたのだ--私たちはすぐそばに困っている人がいるのに気付かず自分たちはいい礼拝をしていると思っているのではないか--イエスはこの暴力の後困っている人たちを癒された--乳飲み子や子供たちがイエスを褒め称えているのに祭司たちには騒音としか聞こえていない--このような差別感覚を備えている礼拝に憤られたのだ--) 信仰者の傲慢(--私は正しいことをしている、あの連中はだめだという思い上がりしなる) ひろさちや(宗教学者--「仏教に学ぶ八十八の知恵」--仕事、家業に専念するな--出家できないものはランク下と小乗仏教は言っている。”今までのカトリックの考え方と似ている”--大乗仏教はこだわり、執着を捨てることを教える--人間は一所懸命すればするほど考えが狭くなっていく--成功した人は成功しなかった人を努力が足りないからだと判断し思いやりを持たなくなる”時には弱者への糾弾となる”--いくら努力しても報いられない人たちがいる”生来もたらせられた障碍を持った人たち、あるいは失敗した人たち”--) 自分たちが一所懸命にしているのは好きでしているのだ 礼拝(目的と手段が混同しないように--宗教が戦争を引き起こしているという矛盾を知る必要がある--このことを知らないとイエスによって礼拝がぶち壊されるかもしれない)
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