2001/01/07 「子供にとっての夜の時代」 マタイ 2:13〜23  (MP3)   
赤ちゃんイエスのエジプト脱出は出エジプト記に対応するようにマタイの福音書は書いた(旧約の成就ということを主張したかった) イエス誕生の時こどもたちが虐殺されたという聖書の記事事実を詮索するよりも人間の側の問題提起し考える必要がある ヘロデ王に関して言えばとても残虐な人間として書かれている(猜疑心のかたまり) 罪のない子供たちが大人の勝手な振る舞いで災難にあっている(現代日本の状況に同じ) 神様が逃げなさいと言われた(逃げる必要がある場合には逃げる) 佐藤 学(さとう まなぶ 東京大学教授 「学びから逃げ出す子どもたち」 岩波ブックレット --政府の誤った経済政策と政治的無策が子どもと若者の未来を暗くしている--就職しても面白くない--高齢化社会と赤字を背負わせられている--未来を拓く学びを一緒にしてゆくことが必要--) 子どもの刑罰を強化しようとしている(子供を敵視している) 勉強(無理させること) 学びと勉強との違い(学びは人が見えている 勉強は人を見る必要がない) 子どもに敬意を払って看る必要がある(子供から聞こうという姿勢)

2001/01/14 「天が開かれる玄関」 マタイ 3:13〜17  (MP3)   
マルチン・ルター(宗教改革 --神の国はあなた方のただ中にあるものである--このことを認めようとしないものはキリストの御国のものとなることを好まないで友人たちの中にいようとし、バラやユリの中に座っていようとし、悪人たちとではなくて敬虔な人たちと一緒にいようとする。お-君たち神を汚すもの、また、キリストを裏切るものよ、万一キリストが君たちのようなことをなさったらいったい誰が救われるであろうか--) 信仰義認(資格なしで神様が救って下さる) イエスの洗礼(当時のエッセネ派は終末が近いと信じ罪の悔い改めの洗礼を繰り返し受けていたと思われる ヨハネも所属していたと思われる--) 罪のないイエスがなぜ洗礼を受けられたのか(--後世の学者もこのことには悩まされた--マタイはヨハネが思いとどまらせようとしていたがイエスは進んで洗礼を受けようとしたと書いた--ヨハネはこのことに触れていない--初代の教会ではイエスが洗礼を受けるはずがないと考えられていた節がある--大事なことはこの洗礼を受けられた後からメシヤとしての活動がはじめられたとの宣言である”神が祝福した、神の愛する子としてこれに聴け--との宣言である”) 私たちの洗礼(--人が何と言おうと神の子となった、安心してよいとの宣言を与えられた--) 残忍非道の殺人犯(松下 竜一 (まつした・りゅういち) 【ノンフィクション作家】「汝を子に迎えん―人を殺めし汝なれど」--新聞の見出しは「幸せな家庭への怒り噴出」とつれた--婦人牧師がこの両親からの愛情を受けないで育った犯人と文通を始めた--この犯人をだれが責めることができるだろう--裁かれるべきは知らない顔をした私たちではないか--婦人牧師はこの犯人を養子にした--彼は牧師をお母さんと呼ぶようになった--) お前の罪は私とともにある。だからここからもう一度立てと神はおっしゃって下さっている 

2001/01/28 「視点を変えよ」 マタイ 4:12〜17  (MP3)   
主題(イエスの宣教開始) 悔い改めよ(--生き方を変えよ--イエスが所属していたかもしれないエッセネ派”ヨハネがいた”が毎日洗礼を繰り返していた--) 天の国は近づいた(--ユダヤ教の人たちは人間が戒めや律法を完全に守れるようになったら来ると信じていた--ユダヤ教の人たちはこの言葉にびっくりした--当時の人たちの常識をひっくり返した--人間の側から近づくのではなく神の方から近づいてくださるということです”視点が変えられる”--) 視点を変える(--人間の側から考えるのでなく神の側から見る--私はいったい何者なのだ--神様の視点に立った場合見当違いの生き方をしていないかと謙虚になる”これが信じているということになる”--) 悪いことをしないという生き方は守る姿勢になる サマリヤ(占領国により無理やり異邦人と結婚させられたため異邦人として軽蔑されていた) 本田哲郎神父(--イエスの洗礼は世界でも地理的に一番の低いところに立って洗礼を受けた--一番低いところから見上げるとすべての人が上に見える--) 塩谷直也先生(--習字の時間に自分の作品を先生から侮辱された経験を持っていた--牧師になってから婦人が泣きながら相談に来た--夫人の作ったちらしずしをけなされてしまったという事だった--けなした相手を殺してしまいたいと思ってしまった--塩谷先生は大の大人がちらしずしごときで泣きわめくなぞあほらしいがなどとは言わなかった--自分の習字の時間を思い出しました--自分の作品を笑われたら悲しいのです--私たちは神の作品です--自分自身でこんな私はダメだと決めつけた時に創り主である神はどう思っていらっしゃるかということを思い起こせ--) 創り主は私たちがどのように生きるのかを見ています(道徳的な生き方を見ているのではないのです)


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