カトリック多摩教会献堂式に参加(--どんな人でも受け入れてくださっている雰囲気を感じた--永山教会もこの雰囲気を目指してゆきたい) ヨハネの子シモン(--ヨハネ教会というグループの福音書記者”ヨハネによる福音書”が書いたものか--) ペテロが三度イエスを裏切った(--愛”アガペー、フィレーン”--人間の愛”フィレーン”で愛しているペテロを許しているイエスの愛”アガペー”--) ブロックウェー(監獄の改革に取り組んだ--表彰されたとき「わたしはただ一つのことをやっているだけです」と答えた--)
留岡幸助(--非行少年のための家庭学校を開いた--”This one thing I do”を「
一路白頭に至る”頭が白くなるまで私は一つの道を貫き通した”」と訳した--) 何か立派なことをやり通すことを神様は期待していない(--人はそれぞれの持ち味を持っている--イエスからの”私を愛しているか”との問いかけを受け取れればよい--)
奈良林 祥(ならばやし やすし 医学博士--「夕映えの季節を生きる」--ろれつが回らなくて入院した--今、こうしてほぼ全快に近い身で人生の夕映えを生きている私は、その夕映えが一際眩しく幸せなものに見えているに違いない事を改めて思い知らされております。というのは、私の産みの母親は強度の喘息持ちで、折りしもスペイン風邪なる悪性流行病の蔓延もあって、周囲から、妊娠中の胎児(つまり私)を堕胎しないとお前の命が危ないと言われていたのにそれを拒み続け、早産で私を生むと、周囲の予想通り、産後すぐに世を去っています。つまり、私は、母が己の身を捨ててまで世に送り出してくれた命だったわけです--神様に心配かけ通しの八十歳です。だから夕映えがまぶしいのです--)