1999/07/04 「神の家族となる」 エフェソ 2:11〜22  (MP3)   
主題(新しい人間 神は私達を身内として扱ってくださる) キリストを仰ぐとき平和が訪れる 相馬雪香(難民を助ける会 MRA道徳再武装副会長 「神津カンナさんとの対談」--友だちから”文句ばかり言っていたら憤死するわよと言われた”--他人のほうが悪いと言っているけどあなたのほうが三倍悪いかもしれないと言われた--冗談じゃないわよと言った--他人を変えることはできないが自分を変えることはできると言われた--”ご主人との関係に適用することにした”--4つの条件”正直、純潔、無私、愛”--謝ることは一心になって謝った--二週間ほどつづけたら主人が”大丈夫か医者に見せたらと言った--今度新しい生き方をすることにしたと言った--疲れて来てまた主人に文句を言うようになった”この亭主は見込みがないと思うようになってきた。私が出てゆくしかないと思い始めた”--神様にお伺いを立てた--お前は自分のほうがよほど良い人間と思っているが私の目から見ると五十歩百歩だという声が聞こえた--ショックを感じた--家を出るのをやめた--MRAの会に出るよと主人に言われた”主人が変わった”--)  自分が変われば他人も変われるチャンスがある(--謙遜--謙虚--) 自分だけが正義の味方だと思わない(--ゆだねる--)

1999/07/11 「反キリストは?」 ヨハネの第一の手紙 3:18〜2  (MP3)   
ニコラス湖畔(人種妄想の犠牲者として詩人ヨヘンクレッパーはその家族とともに1942年12月11日あいともに死についた。われらの罪を許したまえ--第二次大戦のドイツ--クレッパーは牧師の子として育った-妻も子もユダヤ人だった--国外脱出を図ったがダメだった--追放命令が来る前一家心中をした--当時、自殺は罪であると判断されていた--苦渋の選択を迫られていた彼の死は教会の罪として謝罪され墓が建てられた--碑には”神は私たちの心よりも大きく全てをご存じだからです”と刻まれている--) 反キリストに対する戦いの文書がヨハネの手紙 人間は常に欲求不満を持っている 目標に向かって努力していることはよいことと評価される(善いことを必死に追求していると人が見えなくなる いい親になろうとして子どもに問うのではなく自分はだめな親だという自覚に向き合ってゆくことにおいて子供は優しさに触れ、自由に成長する ) 互いに愛し合う(隣人になろうとして仕えあう) 善意の塊(注意しにくい)  新谷のり子(カトリック 「どうしてキリスト者になったのか」 反戦運動に参加”フランシーヌの場合” パレスチナ難民救済に参加 --洗礼を受けることによりずっとパレスチナ人の方に近くなると神父に言われた--フィリッピンに英語の話せない友達と行った--初めに友だちが出来たのは人に安心感を持たせる友達の方だった--) おかげさまで何の問題もありません(信仰者の傲慢 神様は悲しんでいるかもしれない 人の痛みを背負えないことを悔い改める必要がある”このことに目が届かないならば信仰義認は反キリストとなる”)

1999/07/18 「死んで実を結ぶ」 コロサイ 1:3〜8  (MP3)   
リョウ.パスカーリャ(「葉っぱのフレディ」”命のバトンタッチ” 自分もこのように死にたいと思った森繁久彌が朗読している--フレディはこの春生まれました--夏には立派な体に成長しました--皆が違っていることを知りました--散ること”死ぬことを知ります”--死は嫌だと思いました--友だちから死ぬということは引っ越しをすることだと教えられます--変化するって自然なことだと教えられます--変化するって自然なことだと教えられます--フレディは冬の雪の中に落ちていきます--春はまためぐってきました--) 遠藤周作(「深い河」--宗教とは無意識そのものである--神は存在ではなく無意識の働きである--宗教とは環境によって左右される”どの宗教に出会うかはご縁の問題だ”--神様は多元的な現れ方で語っている--復活”自分を生かしている大きな命、生命の中に戻ることだ”--私たちの命も転生する--ガンジス川は母なる愛のシンボル--)

1999/07/25 「内側の力」 コリント2 10:1〜6  (MP3)   
並木浩一先生(国際基督教大学 「人が孤独になるとき」--私がなぜ人格神の神様を信じるのか--死んだ後を頼むことが出来る方がいらっしゃる--許しと愛の完成”自分を本当に許して下さる方がいらっしゃる”--礼拝の喜び”罪を許され慰められる恵”--私たちが破れを繕うものとなるという望み”礼拝が終わったら派遣される”--)--島崎光正”筋ジストロフィーで若くして亡くなった詩人”の死を悼んで(--君の弱さの針はこの世の破れと痛みを繕い皮衣のように障害を編んだ--) 私たちの戦いの武器は肉のものではなく神に由来する力であって(弱さを受容できていないときにはこの力が働かない”パウロは私は弱いときに強いと言っている”) 神はご自身が生きて働くために私たちをあえて弱い立場に追いやられる(なぜこんな目に合わせられるのだと思う”この時こそ聖霊が働く”) 趙寿玉(ちょうすおく)さんの証(太平洋戦争のときキリスト教も賛成した神社参拝を拒否した人でもともと居た教会を追い出された 「福音と世界」--官憲に天皇はと聞かれたとき”私たちと同じ人間ですと答えた”--拷問のさなか殺してしまえとい声も聞こえ、とても怖かった--獄房の中で昨夜見た夢を思い出した”鞭打たれている自分にその鞭がとどかなかった”--神はこの警察官をも支配している、神が手綱を引き締めている限りは殺せないのだと思った--警察官の目をまともに見ることができるようになった--釈放された--) 柔和とは包容力がある優しさだ神に対して従順であって広さをもっている 弱さに徹底している時にこそ強い


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