1999/05/02 「復活の光」 ヨハネ 12:34〜36a  (MP3)   
幽冥境を異にす(手の届かないところに行ってしまった) 羽仁 説子(自由学園 幽冥境を異にせず”復活とはこの世とあの世の境を取り払われた”) 人の子(ダニエル書”終わりの時にこられるメシヤ”) カルロ・マリアマルティーニ(「キリストの友となるために」ヨハネによる福音書による黙想 --受難をどのようにとらえるか--新約聖書記者のとらえ方が少しずつ違う--ヨハネは受肉の完成ととらえる”受難は栄光である”--) 左近淑先生(--十字架上での早すぎる死”人間の受ける最大の苦しみを受けられた”--復活”死がマイナスと捉えられる人生がそのままプラスになる”--一生の宝となった手紙”兄の死によって落ち込んだ--神がむごい世界の内側に宿って下さりこの暗黒をおのれのものとしてくださった愛の深さと苦しみを感じ心を打たれました。やっとやっと大事にしていたものを手に入れたようで感謝の涙があふれました--私の心の内側にも確かな神の光が宿ったことを確信しました”) 藤木正三牧師(死も生きる 無駄なことも恥じも何もかも生きる 復活の光に照らされているものは何もかも生きている) 無意味さを受け入れよう(十字架が生かされる)

1999/05/09 「謙遜とは」 ルカ 18:9〜17  (MP3)   
相田 みつを(トマピー トマトはトマトのままでいれば本物なんだよ--トマトをメロンに見せようとするから偽物になる--みんなそれぞれに本物なのに骨を折って偽物になりたがる--) 今を否定する(自分についても人についても否定する) 義とされた祈り(誇る祈りか”私たちが祈っていないか”、憐れんでくださいというへりくだった祈りか) 礼拝に来ていることは善いことで、劇場や、競技場に連なっていることは悪いこと(このように善悪の判断が下されることには問題がある) 藤木正三牧師(--信仰を持つといいます--人間にもたれた神は人間に捨てられる神であり、人間に利用される神でもありましょう。それはもはや神ではありますまい、信仰でもありますまい--もつことを根本的に問い正すことを悔い改めるといいます--) 子供は依存することなしには生きられない(--父なる神に依存している 自分を否定していることは依存していない、今を否定することは神に依存していない--) 会堂を持たない教会は教会ではない(今を否定している 会堂を持つ持たないは本当に大事なことではない 今が教会かを知る必要がある 会堂は手段であるに過ぎない 石川牧師自身の信仰が問いただされた”今まさに生き生きした教会なのだということを知らされた”) 人間はいい悪いを考える者なのです(礼拝は限界があることを知ることです) あるリハビリテーションの壁に書かれた詩(--大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった--偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気を賜った--幸せになろうとして富を求めたのに、賢明にあるようにと貧困を授かった--世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった--求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた--神の意に沿わぬものであるにかかわらず心の中の言い表せない祈りは全てかなえられた--私は最も豊かに祝福されたのだ--)

1999/05/16 「キリストの弟子」 マタイ 28:16〜20  (MP3)   
本田哲郎神父の転機(釜ヶ崎ふるさとの家 --人の目を気にしないで生きたい--聖書の教えは力は弱さの中に十分に発揮される--人を解放させる力は自分から出ていくのではなくて--しんどさの中から仲間の不安を受けとめて、共感してくれて、そこに人を解放してゆく力が出てくる--聖書が言っているのもそこだった--従来の教会が踏み外す一番の軸としてきたのは倫理観や道徳観でした福音書の中でパリサイ派の人たちが考える罪人の観点は--この観点からイエスは外れていたので当時の価値観で罪人”十字架刑”とされました--) キリストの弟子とはキリストの弟や子供になって従うことです マタイの福音書の特徴(教会を大事にする) マザーテレサ(--祈れないときがありますそのときには単純になればいいのです--私の心のうちにおられるキリストに祈っていただくのです--私が語ることが出来ないそのときキリストが語ります--私が祈れないそのときキリストが祈ります--もう何も差し出すものがないとき--この、何もないということをイエスに差し出せばいいのです--) バプテスマとはイエスのように生きますという決心をすることです ブラザーロジェの祈り(--あなたは私の心のただなかにおられたのに私はいつも別のところを見ていました--)

1999/05/23 「逃げずに、信じて、待て」 使徒言行録 1:1〜11  (MP3)   
ペンテコステ(聖霊降臨日 イースターから50日目) ルカ福音書と使徒言行録は続き物(エルサレムは逃げ出したくなるほどのところだった 逃げ出したくなる現実から逃げるなとのイエスの命令をひたすら祈って待つ) 山根 基世(やまね もとよ雑誌「あけぼの」 「なぜカトリックに」--川崎麻世”妻カイヤ”--結婚後相手の欠点ばかり見えるようになってきた--友人が教会に行ってみたらと勧めた--分かれることになるかもしれないですけどそうなったらどうぞよろしくと祈った--お父さん”お母さんと離婚していた”と会いなさいという声が聞こえてきた--父は半身不随で見る影もなかった--離婚した父親は子どものことで苦しみ続けるのだということが分かった--自分も妻と別れると子供が苦しむと感じた--気が楽になった--俺は神様の道具になると決心した--) 約束されたものをしっかり待つ

1999/05/30 「行き届いた神」 ヨハネの手紙 5:1〜12  (MP3)   
「我等なぜキリスト教徒となりしか」(光文社、” 井上 洋治神父、安岡 章太郎, 遠藤周作”対談集--井上神父の後書き--人知を超えた神の働き--安岡のカトリックの悪口が聞こえてきた--数年後安岡は遠藤をゴットファーザーとして洗礼を受けた--安岡さんの宗教経歴--) 三位一体(一人の神の三つの顔”父としての顔、子としての顔、聖霊としての顔”でないキリスト教はキリスト教ではない--イエス”子としての顔”は私達と同じ人間となられ、人間として死なれた--神と人との関係はどのようであるべきかを人間として示された--) 私達は聖霊”感性”の海の中で生きている(呼ばないと来てくれない聖霊ではない、聖霊はどこか遠くにいるので呼び求めるという讃美歌には違和感を覚える) ヨハネの福音書が書かれた背景(--化体説”神が一時人間の体になった”ということに対しイエスは真の人間であったことを言いたかったのではないか--) 末盛千枝子さん(すえもりブックス 山根 基世”やまね もとよ 元NHKエグゼクティブアナウンサー”さんとの対談集--末森さんは洗礼を受け結婚後子供が生まれてすぐ”九歳頃”ご主人を亡くした--自分がいたらなかったからだと自分を責めた--でも、お通夜の時、これは神様みなあなたのせいです。ですからあなたが何とかしてくださるでしょうと思った--天使”聖霊”がそうささやくのです--)


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