1999/02/07 「よく聞け」 ヨハネ 7:14〜24  (MP3)                       
松居直先生(福音館書店「絵本・ことばのよろこび」--幼児期に絵本を読み聞かせることがだいじ”言葉を大事に表現するようになる”--父なる神はこう語るのであって書き記すのではない神の言葉であるイエスは読み書きができたにもかかわらず何も書き残さなかった信仰は聞くことによるのでありとローマ人への手紙にはしるされている。文字は人を殺し、霊”つまり話される言葉を運ぶ息”は人を生かす--ウォルター・J. オングの「声の文化と文字の文化」より引用 --俵万智の父は彼女が二歳の頃より読み聞かせをしてくれた、三歳ころには一字一句間違いなしにその話をするようになっていた--) ヨハネ福音書(命のある言葉 迫害されている信徒への励ましのために書かれた) 正しい裁き(うわべで人を裁くな ガリラヤの漁師”弟子たち”と大工の子”イエス”がどうしてこのような話が出来るのかと当時の学者は思った) 仲間はずれにされた子を見ていた女の子が私何もしてあげられないのと言った(松居直先生はこの子の優しさと強さを感じることが出来感動した。今まで見えていなかったこの子が見えてきた) 聞くときには無心になる(説教準備中に相談の電話があり。相談者は石川先生が怒っていることを感じた うるさいなという思いが出てしまったのだろう 自分は聞くことが出来ないものだということを認識する必要がある) 詩「聞いてください」(--私の話を聞いてくださいと頼むとあなたは助言を始めます。私はそんなこと望んでいないのに--私の話を聞いてくださいと頼むとあなたはその理由について話し始めます。--申し訳ないと思いつつも不愉快になります。--あなたは何とかして私の悩みを解決しなければという気になります--おかしなことにそれは私の気持ちに反するのです--祈ることに慰めを見出す人がいるのはそのためでしょうか--神は無言だからです--神は聞くだけで悩みの解消は自分にまかせてくれます--だからあなたも黙って私の話を聞いてください--そうすれば私はあなたの話に耳を傾けます--)

1999/02/14 「建前優先の聞き方」 マルコ 3:1〜6  (MP3)                  
工藤 信夫先生(ルーテル神学大学 「信仰者の自己吟味」いのちのことば社--クリスチャン像の中で自分がとにかく立派なあるいは信仰深いクリスチャンでありたいという願いが変に強すぎるのではないだろうか--自己を深く見つめようとする世界へ深く踏み込ませないようにしているのではないか--) 自分の姿に気付かないで無意識に人を阻害している人(問題は自分なのに外に問題があると思っている人 パリサイ派の人たちに見られる) 安息日”聖日”厳守(秩序のもとに動かしたい人が唱える 宗教の中に秘められた罠”誘惑”である 守れない人のことを考えていない 守れる立場の人だけが自己満足に陥る危険性がある”教会の中でランク付が出来る” イエス様を放り出そうとする 落ち度のない者となろうとする) 片手のなえた人を癒すイエス(イエスの主導性 安息日に病をいやす”生かす”ことはいけないことかの問いに沈黙する人たち 憤りのあとに悲しんでくださるイエス イエス様を怒らせた自覚を持つことがだいじ 教会は罪と弱さにおいて共感できるところでありたい 肝心な時に黙ってしまうことはないか) 吉幾三(--娘を叱った--雪の中裸足で飛び出した娘を追いかけた--暖かい部屋に連れ戻り叱ったことをあやまった--以来、娘との関係が良くなった--) 入佐明美(いりさあけみ 釜ヶ崎で長くボランティアとして働ける人は十分な愛を受けているから十分支えることができる 私も”おじいちゃん、おばあちゃんから過保護なほどの愛を受けた) 愛を受けた経験があるから人を愛せる 罪と弱さに共感できる教会でありたい ゲーテの詩(--遠く離れている人の心が近くにあるのを知るとき地球は人の住む園となる--)

1999/02/21 「離れ去ったのに」 ヨハネ 6:60〜71  (MP3)                  
予定説(神様から選ばれた人しか神様のもとに行けないと受け取ってはいけない これは選ばれたと信じた人の告白である お許しいただいたから信じることが出来たとへりくだる思いが大切である 神様は救われる人と救われない人を予定して決めてはおられない) イエスを裏切った弟子は十二分の一”一人”ではない(ペテロは私は裏切りませんと言ったにもかかわらず一時イエスを捨て去った 全員が裏切ったのである ユダはその代表となっただけである) レント(神様が私を赦してくれるためにどんなに大きな悲しみ、苦しみをもってくださっているのかを知る、と同時にどんなに多くの人に赦してもらい、悲しみを負わせ、我慢させ、忍耐させてきたかを思い起こすことでもある) 逆説的ではあるがキリスト教を離れてもいいというゆとりを持つことも大事なことである(弟子たちも一時イエスを離れ去った) 遠藤周作(「沈黙」--神の愛は私達が決め付けなければならないほど狭くて、厳格ではなく無限に大きい--司祭は足を上げた、足に鈍い痛みを感じた--もっとも清らかだと信じたもの、最も人間の理想に満たされたものを踏むこの足の痛み、そのとき”踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かっていった”--お前の足の痛さを一番よく知っている--私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かつために十字架を背負ったのだ--踏絵に足をかけたとき朝が来た。にわとりが遠くで鳴いた--)

1999/02/28 「すべては、神の前に」 マルコ 12:13〜17  (MP3)               
武田清子先生(国際基督教大学名誉教授 「内村鑑三先生をめぐって」--戦闘的な信仰は神の義の前に立つ人間ということの大切さを訴えるメッセージ--オックスフォードの人間形成”神の正義により悪を悪として見抜く目を持った人を育てることだ”--) 原理主義は人間を見えなくしてしまう ルイ神父を支える会(「寄留の他国人として」「ルイ神父と再入国裁判」指紋押捺拒否 --裁判所は弱い人たちの人権を守るためのものではないか、不当に差別されることを訴える--教会でもっと考えなければいけない問題だ”政治と宗教”--) 斎藤宗次郎(非戦論事件 徴兵拒否 内村は自分の良心に相談して決めたらと言った)


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