1998/09/06 「イエスのようであるから」 ヨハネ 4:15〜21 (MP3)                
主題(隣人) 祝福のつなぎ手(確かな愛にいなければならない) グノーシス(最高点に達しなければならない 善悪二元論 善と悪を区別し差別化する ) 私達はイエスのようである(私も貴方もそうです 行いにウエートを置くことは間違いです 関係の中に生きてゆく) 浜文子(鴨川出版社 詩人「心の絵本」(ゆきちゃん二十二才しゃべることが出来ない車いすの障碍者、でも私は私--”詩人の言葉” 浜さんが私ガンになっちゃったのよとゆきちゃんに話した--ゆきちゃんの口からツート唾液がこぼれてきた、ハンカチでぬぐうとゆきちゃんの体温が伝わってきた--ゆきちゃんは口を少しゆがめて”それがどうしたの”と私に呼びかけたような気がした--ツツー、ツツーと落ちるゆきちゃんのよだれを黙ってぬぐい続けているうちになぜか神仏に背をなでられたように、深いところから慰められている自分に出会っていました--一人の存在が他者にどれだけ影響を与える者であるかを痛感してきました--「ともに」”詩”--言葉が無力な哀しみがある--励ましに傷が開くことがある--言葉に間に合わぬ喜びがあり--泣くことを忘れる苦しみがある--そんなときあなたのそばにいると”ゆきちゃん”人が隣り合う安らぎ--人が寄り添う優しさ--言葉を超えた慰めが--あなたから伝わってくる--本当に苦しいとき--あなたの沈黙がそのまま私しへの深いいたわりとなる--ほんとうにうれしいときあなたの沈黙がそのまま私への貴いねぎらいとなって--胸の隅々に広がっていく--「あなたの足」--他と競うことはなかった--誰も傷つけず誰もいさめず--この世の些事にとらわれない--沈黙したままのの無防備をだれにも等しくなげだしてあるゆきちゃん--あなたの中に神様を見ている--”しかし私はゆきちゃんをどうしてこのようにお作りになったのですかと神様に問い続ける”--) 私たちはどんなに言葉に頼りすぎているか 問うということは愛の原点です

1998/09/20 「全ての人の救いのために」 テモテ1 2:1〜7 (MP3)                
主題(権威の中にあるもの) 香取 淳子(雑誌”あけぼの” 明石康”元国連事務次長”の話--てれびはクローズアップで対象をとらえすぎる--もっと、ワイドに対象を見なければ複雑な背景が何も見えてこない--) 全ての人のために祈る(クリスチャンに限らない世界の人々 終末を信じているからできる) 小さくされた人たちのために祈るとは政治的な中立を保ちながらではできない現実がある(解放の神学 クリスチャンは政治的な活動をしてはならないという呪縛から解放されなければ弱い人の側に立つことが出来ない マザーテレサの行動はこのような現実を見据えている) 謙遜とは自分のあるがままを素直に受け入れる(落ち込むことは傲慢の裏返しである) うれしくなる生き方(クリスチャンになることばかりではない)

1998/09/27 「わたしではない」 ガラテヤ 2:20〜3:7 (MP3)                
主題(信仰の証) 信徒に証しを依頼すると九割方が断る(信仰を証しする立派な話ととらえる”褒めてくれという気持ちが入る”、依頼されると断るのは自然の姿) 証しは人が聞いて嬉しくることを語る(福音 失敗談を自分で笑う 人が聞いてて安心できる) 井上洋治神父(「キリストを運んだ男」--ガラテアの信徒への手紙”パウロは怒って書いている”--せっかく自由になったのにまた規則に縛られるのか--) キリストが私の中で生きるためには自己否定が必要(生きているのは私ではない) 良寛(--災難に会う時節には災難に会うがよきそうろう、死ぬ時節には死ぬがよき候、これはこれ災難を逃れる妙法にてそうろう--三条地震--うちつけに死なば死なずで永らえてかかる憂き目を見るがわびしさ”生き延びていることがつらい”)


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