1998/03/01 「一番欲しいもの」 ルカ 4:1〜13  (MP3)                     
主題(神の国王の試練) レント(受洗訓練期間 四十日間”日曜日は含めない”) イエスが誘惑にあった(一番欲しいものは 三つの試練は出エジプト記の順序に習った”マタイによる福音書” 空腹−-マナ--権力 歴史的事実ではないとされるが大事な意味がある)  タゴール(インド 詩--危険から守られることではなく危険のさなかで恐れないことです--慰めてもらうことではなく哀しみを克服し勝利を歌う--逃げ場が亡くなった時にも勇気を失わせないでください--挫折の連続にあっている時もその前が取り返しがつかないものと考えない恵を頂きたいのです--あなたが来て私を救って下さる、これを私は願っていません。私が願うのは乗り越えていく力です あなたは私の荷を軽くしたり、慰めて下さらないで結構です。ただ私が重荷を担うその力をお与えください 喜びの日に謙虚に頭を垂れ私はあなたを思いあなたの存在を認めます くらい悲しい夜失意以外何もない夜にもあ-あ決してあなたを疑うことがありませんように)

1998/03/08 「聖霊と悪霊の混同」 マタイ 12:22〜32  (MP3)                  
レント オーム裁判(林被告無期懲役) 死刑被告(アメリカ 教誨師は”被告は悔い改めた”と言った クリスチャンと思われる遺族は彼が天国にいけるはずはないと言ったこの遺族は自分だけは天国に行ける思っている 他人の不道徳は許せない) マタイによる福音書はパリサイ人を批判している ヨセフス(古代歴史家 エレアザロスという男が癒しをしている情景を描いている)”癒しだけなら当時も占い師がいた”) 私達もパリサイ人か 石川牧師の失敗(北海道時代 他人の罪は許せない ) 素顔の信仰生活(カトリックの出版物 自分がぴかぴかしてきて他の人は救われていないとする宗教、もう一つの宗教は他の人がぴぴかして見える宗教)

1998/03/15 「逆説的栄光」 ルカ 9:18〜27  (MP3)                  
へそ曲がりのイエス像(イエスの時代に今表現されているような後光が差すイエス像であればパリサイ人たちによって十字架につけられるはずがない イエスは当時律法により悪いこととされていたことを弱い人のために平気で犯された) ルカによる福音書の特徴(イエスが何かをされる前にはいつも祈っている) 民衆の直観力 善の究極にいるメシヤ(このような人が十字架にかかるはずがないと弟子たちは思っていた) 自分がいいことをしたという思いは傲慢につながる ザアカイ(ハプニングに対してはハプニングで答えた) つちださだお(松沢教会会員 われありてわれなき空のひろさかな 聖書でよくわからないところがあればそのままわからないでよいではないか ボンフェッファー(「朝の祈り」 --私のところは闇ですがあなたの御傍には光があります。私は孤独でありますがあなたはお見捨てにはなりません。私は恐れておりますがあなたには助けがあります。私は不安ですが御許には平和があります。私の言葉には棘がありますがあなたの御許には忍耐があります。私があなたの道を理解しなくともあなたは私のための道をご存知です。--たとえ一人の人間も私の側にいなくてもあなたは留まりたまいます。私を忘れることなく訪ね求めたまいます。--私に助けをお与えください--アーメン)

1998/03/22 「栄光からの旅立ち」 ルカ 9:28〜36  (MP3)                  
山上の変貌 藤木正三牧師(--信仰に関して世の中には信じる人と、信じない人との二種類がいるように思われているけれども本当は一種類の人しかいない--いるのは信じる私と信じられないない私が葛藤している一種類の人だけです--) J.スチワート(「高度な現実主義」 信仰を現実の生活で用いないのは意味が無い--ダビデの話”最大のピンチを迎えたとき主の力によって力を奮い起こした--これまで助けて下さった神がかならず助けて下さる”--バプテスマは神が最後までいて下さる約束なのです--)

1998/03/29 「上に下る平和の道」 マルコ 10:32〜45  (MP3)                  
本田哲郎神父(雑誌あけぼの「小さくされた人々への福音」釜ヶ崎ふるさとの家 慰霊祭”献金の両替 わしあう言うのを見ると涙が出るねん” 洗礼”身を沈める儀式であり穢れを清める儀式ではない、これによって身も心も清まったと思ってはならない”) 清水啓三牧師(三鷹教会 「手探り聖書入門」マルコによる福音書解説 --イエスは私たちに命を捨てよとは言っておられない、私が命を捨てるとおっしゃっている--お前は人に仕えるものとなりなさい--お前の救いは私が引き受けたもう何もする必要はない--お前たちは生きているもう自分のためにすることは何もないからほかの人のことをしてあげなさいと言われているのかもしれない--自分という目標が他人へと変わっていく--信じなければ仕えなければとしきりにもがいている間は自分の事ばかりが気になる--イエス様のもとでもっともっと気楽にふるまいたいと願わずにはいられない)


                                                                                                 ページのトップへ戻る