1997/07/06 「何をしなくても愛」 コリントT 6:1〜10  (MP3)                 
主題(最も優れた道) 良寛の詩(--花開くとき蝶きたり、蝶きたるとき花開く--”摂理に従う”) 松原 泰道(まつばら たいどう 日本の臨済宗の僧侶 龍源寺住職 花も蝶も無心の縁のままにせいいっぱい咲き、せいいっぱい舞っている。無心とはいわゆる心なきことでもなければ単なる無邪気でもない--自然”じねん”のままに花開くとき蝶来たり、蝶来たるとき花開くのだ--因縁を生かす--現象が善くても悪くても--その現象が示し教えている真実を見据えてうなづき--) 愛がなければ一切は無益である 異言”特別な賜物を持ち偉い人扱いされる”よりも預言 弱いところ”手足纏されるような人”があるからこそ教会です(開かれた教会) 仲良し集団は人を寄せ付けなくなります 聖書は愛について書いている書物です(あらゆる出来事の背後にじっと見守ってくださる神様の目気付かされます) 愛の在り方(私たちは中途半端でありながら子とされているということを喜ぶことから出発する) 喜び-感謝-祈り(いつも連動している) 存在としての愛(感謝を見つけることができる心 低いところから見上げる目) 今の子どもたち(選択肢が少ない 大人がそうさせている) 若者に感謝されたおばあちゃん(介護に来た若者に満面の笑みで感謝する。うれしいの連発になる)

1997/07/13 「透明な存在の拒否」 ガラテヤ 5:16〜26  (MP3)                 
高村薫(たかむら かおる --神戸の少年殺人犯人--透明存在とはどうゆう存在なのか--他人の目に映らないという感じだろうか--無視されている勘定を含んでいるのだろうか--他人を無視した自分だけの世界--自分を受け入れないものを排除する論理を彼に育ませたのは記号だけの体系を教えて人間存在の闇を教えなかった大人である--) 大人の目で子供を評論しない(ふぁっとした抑圧の中にある) バビロン捕囚の民(現代と同じ閉塞感の中にあった 石の心が肉の心になる) 霊の実は結果としてわかってくるもの(努力していただくものではない) 藤木正三牧師(--信仰は今日の問題ですしかし愛には明日があるのです”今日失敗しても明日がある”) 信仰(今ここにいる私が問われている 生きている”生かされている”現実 信仰が深められていくほど罪の意識が大きくなる。以前に気付かなかったことまで気付くようになる 年々自分の至らなさが気付きます) マルチンルター(--手を磨けば磨くほど黒くなる--)



1997/07/20 「武具となる祈り」 エフェソ 6:10〜20  (MP3)                 
教会は建物ではない(キリストによって呼び集められた人々の群れ 生き生きした交わり) 三浦綾子(私のために祈ってください”祈りのネットワーク” どれだけ多くの祈りに支えられたか) 自分の限界を知らされるほど嫌なことはない   石川和夫牧師(放送伝道より 「サンゴ礁」”視聴者よりの同人誌” 祈りによる救いがある 臨終間際の婦人に祈った”今まで身近なスタッフに対して本気で祈ることをしなかった” 機械的な祈りではなく 優越感で人を助けようとしても助からない”恩を着せられることになるから” 自分にはできないということを知っていてほしい 天の父”その人のことを一番よく知っている”はどんなことでもできるという希望がある 他の人の手にゆだねることもできる お礼を期待する気持が多くなる”感謝の言葉がないと不機嫌になった” 先生の話を聞いていると問題は解決していないが楽になってきた)


1997/07/27 「決して目を離さない」 フィリピ 2:5〜11  (MP3)                 
主題(キリストの心”私たちから決して目をはなしておられない”) 晴佐久昌英神父(「星ことば」女子パウロ会出版 キリスト教専門用語を使っていない 叱られてうれしかった 小学生四年の頃暗くなった利用時間が過ぎた図書室で本を読んでいたら先生に叱られた 先生は”親からもらった眼を大事にしろと言って電気をつけていってしまった” --小さなことだが身に染みてうれしかった--杓子定規だけのルール―を教えるのでなく、その人を見るまなざしがあったし、なによりも先生は僕のことを大事に思っているんだと子供心にも感じた--叱るのは簡単だが--かえって恨みをかっていることが多い--大人が自分の都合や一方的なルールの権力で叱るからだ--先生がパチンとつけてくれた明かりは今も心の中にともっている--) 自分を無にしないと看ることはできない(こうあらねばということを捨てる とらわれると見えなくなる 喜ばせたいと思っている眼が見えてくる) ヨブ記(正さ追及の傲慢が神の前に打ち砕かれる物語 自分は神様に後ろ指差されるようなことはしていませんと言い続けた あなたのことは聞いていましたが本当の神に出会った今”私は傲慢さを悔い改めました”) 斉藤剛選手(障碍を持った陸上選手 会社務めをやめた 母は貧乏暮らしの彼に涙した それが彼を支えた)


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