1997/04/06 「合わせる顔がある」 ヨハネ 20:19〜29  (MP3)                  
齢を意識するとき(マイナスの要素を考えた時 合わせる顔がないようなことをしたとき) 主日礼拝の姿(私たちの中に主イエスが立っておられるのを確認するとき シャローム”あなたも神とともにあります” 前奏の間に全能の父の前に立っていることを受け取る) 正直なトマス(私の信仰は私が確かめたい) イエス様にあったのにまた鍵を掛けてしまう(この中にシャロームと言って入ってくる トマスはイエスの傷に触れると同時に自分の傷にも触れたことでよみがえった) 小山晃佑博士(「水牛の神学」 --努力の信仰から関係の信仰に入る--努力型人生は疲れる--)

1997/04/13 「共に食べるイエス」 ルカ 24:13〜35  (MP3)                  
主題(エマオへの道 正確な場所は分からない) 石島三郎牧師(「クリスチャン」 クリスチャンは大嫌いだ飾りすぎている 言葉を粗末にしている”神に対しての恐れがない” 厚化粧で誤魔化しているのです。白く塗りたくったのが自分の素顔のように思い込んでしまって自分の肌の黒さを忘れてしまっていい気になってしまうことです--教会の中に一番嘘が多い--) 神様を困らせる傲慢な献金の祈り(このお金を使ってくださいなどとは傲慢な言い方だ 私を使ってくださいとへりくだる必要がある) うそのない教会、人が来たくなる教会(伝道は牧師の説教でするのではなくて、信徒の生き方と交わりの姿が伝道につながっていく) 青野 太潮(あおの たしお、日本の神学者「どう読むか聖書」 --ただイエス様を目で見ていれば信じられるという事とは違う--真実に復活がわかるということは決してこの目で見この手で触れるようなな形でそれがわかるということではないのだ。そのような形で復活を追い求めているかぎりはたとえ復活者が目の前にいてもそれがわからず--本当にそれがわかった時にはもはやその姿は目には見えないのだ--) 十字架のキリストが本当に見えた時に復活のキリストが見える(目に見える姿でのイエスは必要なくなった。自分の足で立つことができるようになった) ラルシュ共同体(ジャンバニエ 障碍者と一緒に食事”生きる根源”を大切にしている 「ひとつとなるために」 --許しが大切--徐々に恐れを信頼に変えていく--私たちは許されたから許すものに変えられていかなければならない--どうしたら許せるのか教えてあげよう--イエスがおられるなら不可能が可能になります--)

1997/04/20 「イエスに出会うところ」 ヨハネ 21:1〜14 (MP3)                 
モルトマン(ジョン・オルシュ・アングランドの詩”友達はあなたに好意を持っている誰かです、一本の木が小川が風があなたの友達である場合があります 必ず一人の友達を持っています”)  聖餐式(最初の教会が出来たころに特に重要視した) 友(イエス様は差別されている人たちと食事を共にした 命を捨てて下さるイエス 教会はイエスの友の集合体 見捨てられた人との友情 私はこの一週間いい友であり得たか) モルトマンの弟子たち(「紀元三千年への途上にある神学」 教会が変えられていかなければならない 礼拝は祭りの要素があってもいい 嘆かわしい関係喪失を克服する) 愛は失敗において成長する

1997/04/27 「それでも頼む」 ヨハネ 21:15〜22 (MP3)                 
主題(主の委託) ペール―人質事件(きにくわないものを抹殺する世の中 破防法はあぶない こうゆう問題について教会は扱わないとする風潮はいけない) 聖書を批判的に読む(全ての言葉から教訓を得ようという姿勢でなくてもよい 人が書いた神の言葉) ペテロ(三度の裏切りを三度許した あなたはどうなのかを聞かれている) 塩谷直也牧師(福音と世界「新しいキリスト教入門」 小学校時代の思い出 --褒められて居心地が悪かった--これまでのことはいいの--僕だけ褒められていると思った--同窓生皆が褒められていた--その時代が楽しかったのは先生に好かれていたからだ--) イエスキリストの愛(過去を問わない)


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