1996/07/21
「聖霊が見える」 コロサイ 1:3〜25
(MP3)
主題(聖霊の実 何が出来るようになったかではない 小さなことに大きく感動できる感性 ありとあらゆることを通し聖霊が見える) マルチンルーサーキング牧師(公民権運動 --私は夢見る、いつの日か私の4人の子供達が皮膚の色でなく、その品性によって評価される国に暮らす時が来ることを--黒人の少年少女が白人の少年少女と手をつないで同胞として共に歩む日の来ることを--) キリスト教教育は何をもって成長というのか(ある状態から脱却することをもって成長というのか 成長することにとらわれてはいけない) コロサイの教会に二元論的なものが入ってきた 道徳的な信仰は他を裁く(福音ではないような気がする) 成長を自分の状態で判断して早とちりをしない(神が働きかけて年数をかけていらっしゃる、成長していることを信じる) 笠原 芳光(かさはら よしみつ 宗教学者 多元的ないろいろの在り方を受け入れよう キリストは絶対だがキリスト教だけが絶対ではない 私にはイエスキリストだけなのだ 今の教会の在り方はおかしい) 笠原 芳光(「宗教の森」山を下る --登山に上り下りがあるように宗教にも上り下りがある--佐々木 幹郎(ささき みきろう”詩人 ヒマラヤ山麓からの下りで目的の場所についたとき--何か柔らかい感触に包まれて体が自然にほどけていき、涙があふれてきて--子供のように大声で泣きながら歩いた--上るときの困難が豆粒のように見え、一切が肯定されていることが全身で感じられた”--宗教の救いや悟りというものは神や仏に向かっていくときに得られるように思われているがそれだけではないだろう--むしろ下ってゆくときにそれは初めて体得できるのではないだろうか--村上春樹訳「クリスマスの思い出」読後感--お互いのための贈り物を買いに出かける--60歳のおばさんが”死ななければ神を見ることが出来ないと思っていたが私たちがいつも目にしていたものが神様のお姿だった。私は今ここでぽっくり逝ってしまってもかまわない”といった--神は日々の暮らしの中に現れている--それがたとえひと時の思いであっても) 下るということに発見がある 信仰は上りと下りがあって健全なものとなる