お話の聞き方説明
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1996/03/03 「ご名答」 マルコ 12:13〜17  (MP3)                     
サンドイッチのパセリを食べ残した日本人達を見た外国人の話 パリサイ”分離する”(信仰を持たない人たちとは一線を画す 悪役ではない 時代をリードするまじめで努力家で当時の社会の模範となる人たちである 律法を守れない人たち”貧しい人たち”を非難する 現代の教会でも起こりうる イエス様に批判されると我慢できなくなる イエスを亡き者としようとして当時の体制派”ヘロデ”と組んだ) 良いこと追求(悪いことを排除する、差別、拒絶の原因になる)にのめりこむと人の心が見えなくなる 救われるとは差し出されたものを受け取ることです

1996/03/10 「誤解を責めない」 マルコ 8:31〜38  (MP3)                   
イエスの弟子の裏切り 人の子(人間 終末に出現する審判者) ペテロはイエス様をいさめ”叱り”はじめた(いさめるは叱るとも訳される、この世の王様になることを期待したのか) 自分を捨てる(自分の善悪の判断を捨てる、人間の善悪の判断には限界がある) 自分の十字架を背負う(人間は誤解をするものだ、これをいちいちとがめだてしていてもはじまらないよ、恥も含めることだ)  井上神父(友人の話”ぶざまな格好で死んでもかまわない”) 私たちの誤解を責めないで受け取って下さったイエスがいつも共にいる

1996/03/17 「イエスは誰か」 マルコ 9:2〜8  (MP3)                    
神の国の王変貌 荒井献先生(恵泉女学園大学 「”ひろさちや”が聞く新約聖書」 対談集 マルコが語りたかったことは”神の子キリストとは”ガリラヤの輝かしいイエスではなく孤独と絶望の中で十字架上に死んだイエスなんだ---絶望の淵にいる私たちの中にいつも一緒にいて下さる---) 書かれたことをそのまま信じることの問題(書かれた初版本がない、人”今の私たちと変わらない姿の人”が書き写したコピーのコピーが残っている、そのこと自体にすでに限界がある、これが絶対ですよというものがない、ということは誤りがある、でもその著者たちが伝えたい精神を受け止める、聖書の奇跡がそのまま起こったとすると私たちの現実の生活と聖書が分離してしまう、今は起こらないのと割り切ってしまう) 聖書の時代に期待されたメシヤ像は文武両道のものとされた形跡がある(イエスはこのイメージには合わなかった、期待外れだった)死なれる神(マルコの主張ご利益宗教の神ではない)  聖書を文字通りに信ずることの問題 遠藤周作(「私のイエス」イエスは永遠の同伴者 肺がん末期の同室者との体験(看護師さんがそっと手を握っていた) 白血病の患者を見た(奥さんがただ手を握っていた、---人間の死に対して夫婦というのは最後には手を取り合って二人を引き裂く死にあらがおうとするのだな) 看護師さんが手を握ってくれたので自分の痛みもとれてきた 痛みは孤独感で増幅される(一緒にいるよと言って下さる方がいれば痛みは半分になる、それがイエス様である) 本当の奇跡とは心の奇跡です

1996/03/31 「見当違いの信仰」 ルカ 19:28〜48  (MP3)                   
岡本太郎(誤解をされるものでなければならない 誤解を受けるには純粋と勇気がいる) 誤解の中で死を迎えられた方がイエスだ ロバに乗ったイエス(平和の象徴) 聖書を読むときに善玉、悪玉と分けて読まないこと(私たちが悪玉であると思って読むならよい、聖書映画では悪玉は憎々しげな顔で描かれている、そうではなく私たちの顔を思い浮かべればいい一見善良風である) 上昇志向(他者が傷んでいることを知らない、失うことを恐れる、一生懸命でまじめであれさえすればいいということではない、成功した人は信仰が立派だったからという評価はしないほうが良い、イエスは当時の評価では大失敗者であった) 誤解と中傷は人間につきものである 神が召された目的(平和を実現するためである) 藤木正三牧師(--隣人を愛そうとすると神との関係が問われる--) アルホンスデーケン(「ユーモアは老いと死の妙薬」 ホスピス --治療方法が無くなっても最後までそばにいる看護によってもっともその人らしい人生の最後を全うさせる事が出来る) 永六輔(本当にもてなす”ホスピス”とは、最後を好きなように、最後を人格として全うできるように助けるところ)


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