1995/01/29
「わたしは神殿」 ヨハネ 2:13〜22
(MP3)
主題(新しい神殿)
ルドルフ ボーレン(--ドイツ神学者--感覚が変えられなくてはならない--「第二コリント書における牧会講演」--ドイツの教会において支配的なことは個人が信仰深くあればよいという考え方です。教会意識などないのが通例です。せいぜいあるとすれば牧師帰属意識です。私たちはよい牧師を持っているとか、まずい牧師だねというのです。--牧師が教会の焦点、牧師は教会員の象徴であります。--そうなると教会は全体的な人格とは見られていないのです。--)
説教中心(--プロテスタントの大事なことだったのですが、いつのまにか受け身になって受け賜るという姿勢になってしまいました”牧師中心”。--この様な姿勢は変える必要がある--自分とキリストとのつながりが大事にされ横のつながりが希薄になりました。気の合う人がいれば居心地がいいのですが、そうでない人がいれば居心地が悪いという状態になったのです--個人倫理”自分個人がどうするか”が大事にされ始めました”宗教改革時代には正しいことでした”--)
新しい神殿(--教会が全体的な人格と見られることなのだと思われます--私の体は神殿なのですキリストの体の一部なのです生きているのはキリストです--私は一人で存在しているのではないのです”生きているのはキリストです”--)
宮清め(--イエス様の暴力”怒り”--イエス様こそ真の礼拝をなさる--礼拝を清める--神殿”ご自分の体のこと”の再建--)
ボーレン先生が引用された詩(--スイスの作家マリアの詩「ローマの噴水」。”意訳”--第一の受け皿は水が満たされるとそれを第二の受け皿に渡す--第二の受け皿が満たされると第三の受け皿に渡す--いずれも受けまた与える--)
受けているばかりでは水は止まってしまう(--私たちがもし受ける苦しみがあるとすればそれは神が苦しんでおられるのを私たちがいただいている事なのだ--私たちが苦しみの中にあるときには、キリストも苦しんでくださっている--苦難を通り越すことなく満ち溢れるほどの恵にあずかれない--)
牧会(--自分が一人でしていることではない--パウロはテモテを通して神の栄光を見ている”テモテのおかげだ”--)
石川牧師の説教準備の仕方(--この聖書のテキストは礼拝に来られる方たちの現実を通してどうなのだと考える--心を落ち着かせる--何を語るかを示される--神は私を祝福してくださっている--自分の力ではない”みんなの祈りに支えられている”--一人一人の問題は教会の問題--ある人の喜びは教会の喜び--ある人の悲しみは教会の悲しみ--祈りあって支える--してもらっていることの方が多い--)