1994/09/04 「家庭は小さな教会」 エフェソ 5:20〜46 (MP3)                   
 主題(家族)
 八木重吉(「詩集 わがよろこびの頌歌”うた”はきえず」いのちのことば社--みんなで寝ている 妻も、ももこも、ようじも、みんなぐったり疲れて寝ている、私はそれを見て勇気が出た--”重吉が亡くなってから彼の詩によってキリストを知った人たちが多く出た。彼を通して働かれた神は今も働かれている”--自分の心の中に大きな花を持っていたいものだその花は他人を憎まなければ蝕まれはしない、他人を憎めばおのずとそこがくされていく、この花を抱いてみな眠りにつこう--) 
 星野富弘さんを立ち直らせたものの一つが八木重吉の詩(--読みながらどんどん自分が素直になって行くのを感じた--)
 教会に来ていない家族もキリストと一体である”家族の頭はキリストである”。家族が救われるように祈りましょうとは傲慢な発想である(--私は選ばれた人、そうでない人を見下げてしまう、私のように一番ダメな人を選んでくれた事に感謝--)
 信仰が厚くなるという願いは道徳的な信仰を願っている(--信仰は道徳ではない--信仰を持っているのだからこうでなければと思い込む--嫌いな人に逢うと逃げ出してしまうことが悪いことだとか--良いと悪いがはっきり分かれてしまう--信仰コンプレックスに陥るか傲慢になる--)
 救われたものの信仰(--こんな私を用いてくださる”神様は依怙贔屓してくださっているのかな?”--良いと悪いが同居している--信仰の強い私と信仰の弱い私が同居している--罪の誘惑に弱い私と決して妥協しようとしない私が背中合わせに同居している--光のほうを向いていると思っても裏側には影が出来る--)  今日の聖書テキストは”結婚式の式文”(--誤解を与えるので最近の式文からは省かれている--)
 家族とは血縁ではない(--血のつながりのない家族の話--家族以上の家族だと思った--家族の中の人が牧師になった--)

1994/09/11 「良心的服従」 ローマ 13:1〜7 (MP3)                       
ヘルムートテリュケ(牧師--神学者--主の祈り--我々は決してイエスを信頼しすぎることはないし、だから、私たちを試みに合わせないでくださいと祈るとき、イエスご自身はこの祈りを教え、その故にそれがそれが聞かれるということに責任を引き受けたもうおかたであることをとくと思い見るべきである--) 主の祈りを本気に祈っているか、道徳的な祈りととらえると実感がなくなります(--別に人に嘘をついてわけでもない、不道徳なことをしているわけでもないと、先週も無事に過ぎたなと、これで誘惑にあわなかったと思っている--悪より救い出したまえとは道徳的な悪ばかりではなく、神様に背を向けることから救ってくださいということです--正義感にとらわれて神様に背を向けてしまうこともあります--) 権威の中にあるものに従うとは(--誘惑にあう可能性が著しくあります--民衆が暗黒の時代にローマの国家権力に利用された経過がある”王の権力に従いなさい”と--関連の中には悪に負けることなく善を持って悪に勝ちなさいとも書いてある”ブラックユーモアでもある”--パウロはローマの信徒が根こそぎローマ皇帝によって滅ぼされないように配慮したのかもしれない、善と悪との区別が明瞭すぎて 権力=悪 宗教的交わり=善 と主張し過激な行動をしている人たちに注意したのではないか”パリサイ的発想でもある”--) 権力には神から託されている責任がある(--それゆえに立てられなくてはならない--権力の座にあるものの行動”一部の者の利益だけになる”に注意する必要がある--) ボンフェファー牧師(--ナチスがしてはならないことをしている--ヒットラーを批判した”牧師であるがテロに加担したとかろがろしい正義感でボンフェファー牧師を批判できない どれだけ自分の矛盾差に気付いているかが信仰にとっては重要”幾百万もの人たちが政治権力により殺されていく現実を直視した--われわれから自由と名誉が奪われるとき彼らの前に昂然と顔を上げ、邪悪な叫びの中に私たちが投げ込まれても彼らに対し自らの無罪を宣す”この件に関しては裁かれることはないという自信”ただし神の前には罪”獄中では同胞を見殺しにし自らの死を恐れていた”を自覚する。”この意識が大きければ大きいほど自由で大胆になれる”--私は罪の告白者として出頭する--この多くの迷いと誤りの後に夜明けを見させ給えと祈った--) 弱さの中にあるものを抹殺してしまうものへの怒り(--その背後にある自分の罪を神の前で告白出来ているかが問われる--聖書の「毒麦の譬え」に学ぶ必要がある--) 自己の中にある矛盾に気が付くことが信仰者の姿であろう(--最後には御心をなしてくださいというところにたどり着く--)

1994/09/25 「私は神のもの」 コリント2 8:1〜9 (MP3)                     
 主題(のびのびした教会)
 石川和夫牧師(--日本の教会はこのままではじり貧となる、何か伝道の方策はないかと考え、新しい試みを永山教会で始めた--神様は日本の教会が埋没してしまうことをお喜びなさっているはずがない--かつての教会のように傲慢になってはいけない--)
 永山教会(--長所”アバウトなところがあるが喜んで自主的に責任を果たす、おおらかさがある。特定の人が無理して頑張っていない”主が助けてくださっていなければありえないことだ”--何かが起こらないはずはない--”短所”チャランポラン”--)
 人数は多くなくてもよい(--ギデオンの戦いは人数を減らしたことにより成功した、人が戦うのでなく神が戦う--)
 コリントの教会(--活気がありのびのびした教会であったがそれが行き過ぎたのでパウロに叱られた--エルサレム教会の窮乏を献金で救う--)
 献金(--恵みへの応答”慈善のわざ”--豊かさ”主は貧しくなられた”--奉仕”礼拝は献金だと訳される言葉からきている”礼拝のクライマックスは献金である。私はあなたのものですという信仰告白に通じる”一週間私は神様のものですということを献金で表す”--施し”コイノーニア、交わり”--献金は痛いなと思う程度がよい”十分の一献金は惜しくて痛いが恵みは十分にある”--自分をささげるとは自分の予定を変えることでもある”主が導かれたということがわかります”--)
 会堂献金(--子供がせっかくためたプラモデルのお金を会堂献金に捧げた--親はよしもっといいものをプレゼントしようと思った--神さまだってそう思われる--)
 礼拝の順序(--前奏”自分の一週間の歩みを振り返り悔い改めるとき”--献金”次の一週間の生き方を決める”--説教”決め手ではない。頭だけで分かるものではない”--祝祷”やれやれやっと終わったという合図ではない、「われら、い出行かん」という派遣の祝福です”--)


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