コリント1 13章(--愛の賛歌ではない、愛の教えである--言葉だけに反応して読まないほうがいい”歴史的な背景がある”--コリント教会の内情に対し発せられた言葉--)
コリントの教会(--享楽的で快楽的--ありえないような不道徳的なことが平気でなされていた”自由でおおらかで活気があったと見做すこともできる”--リーダーシップを占めている人たちは豊かな人たちであった--異言”ある種の恍惚状態になり我を忘れて言葉にならない言葉を話す”--異言が語れるようになると信仰がワンランクあがり本物の信者であると見做された--パウロはどんなすごい異言を語ったってそれはだめだよ”愛がなければ騒がしいドラやシンバルでやかましいだけだ”と言った--パウロは女性たちに厳しいことを言い現代から見たら女性差別者と思われてしまうがパウロを弁護したくなる”異言のことについてのつながりの中で言っている。異言を語る人の中に女性が多かったのではないかと思っている。その人たちがリーダーシップを持っていて「こうでなければなせらない」というようにして教会を引っ張っていったのでは?”だから黙っていなさいと言ったのでは?--預言”説教であろう”神秘”神様と触れ合った経験”あらゆる知識と山を動かすような信仰があっても”愛”がなければ無に等しいといった--)
信仰(--単細胞的ではない--命を捨てさえすればいいというものでない--イエスの十字架の死のようなものなのか動機がなんだかが問われる--愛は倫理ではない、行いばかりでもない、あり方である”being”--生き方である 愛は謙虚である”謙虚でない愛は道徳である” 人生の目標は愛の完成である”どれだけのことができたかではないどこに向かっていかに生きたかである。早死にはかわいそう、長生きはめでたいということではない” 全てを耐え、すべてを信じ”牧師にとってもとてもできることではない”が目標とする”ここに向かって生きる” 私たちが認識していることは不確かなことで全部がわからなければということは傲慢である、作られた人間に全部わかるはずがない”分からないということも受容する” 終わりの時にはっきりとわかる”完成と発表の時”いまはその途中である たのしみである--挫折は神様からの修正の時である--)
うめ子先生に対する山田洋二監督の言葉(--こんな美しい日本人がいる まだまだ僕たちの国はだいじょうぶなんだと感動のうちに思いました--)
佐々木 征夫さんはうめ子先生に乞われて”一日一生”と一筆書いた(--こんな私にまでも気にかけて下さっていることにあとから気が付いた--頼まれることの大事さにも気付いた--)
うめ先生の絶筆文書(--日記”今日は佐々木さんがお仲間の方とおいで下さいました うれしなみだがでましたよ ばあさんいつまでいきてるの かみさまにおまかせしてあるからしんぱいなし あーめん”--もうすぐお別れのときよ、あら、鐘の音が聞こえるわ、みんな、みんな、みんな、みんな、よしよし、よしよし--)
お別れの時の教え子”私は神様を信じませんと言っていた”高校生の言葉(--先生、僕は先生がうらやましいです--)
私たちはそれぞれに与えられたように生きるしかない(--最後に--”みんな みんな よしよし”と言えるようになりたい--)
生まれた時よりも美しく死にたい(--
うめ子先生が願っていた通りにそのまま実現していた--)