1994/07/03 「捨てなければ得られない」 コロサイ 3:12〜17 (MP3)                
 主題(新しい律法--聖書独特の用語、民法、刑法も含む=法律 私は法律に違反していないからいい人間であるとは限らない--)
 古い律法(--イエスは旧約の律法には違反した--安息日に人を癒した”旧約では律法違反”--)
 新しい律法とは(--イエスに習いなさい、愛によって歩みなさい--)
 愛とは自分の在り方です(--愛をしてあげると捉えると自分の中に点数を積むことになりそれを誇るようになる”驕りを生む”--小さな親切大きなお世話--歳をとるとしてあげる愛は出来なくなり挫折感を生む--)
 富める青年(--旧約の律法に照らせば模範的な礼儀正しい青年である--エリート青年--宗教的な真理を追究した--永遠の命を得るにはどんなよいことをしたらいいでしょうかという質問をイエスにした--イエスは”善悪の判断は神様にお任せしなさい、人間に完全はありません”と言われた--捨てることによって完全になれるができないことである”富める青年はできなかった”私たちにもできないことである--)
 老化(--してもらうことが多くなる--神様の計らいである--謙虚でなければできない有難う”感謝”を言うことになる--)
 信仰とつながらない愛(--単なる道徳である--)
 感謝の心を持つ(「うめ子先生―100歳の高校教師」 佐々木 征夫著 山形県・小国町にある基督教独立学園で書道を受け持っておられた--九十九歳で入院--”嬉しいな生きている、本が読めて字が書けて、うれしいな生きている うれしいな寝て遊んでいる 夢でも見ているのかな そうではないよ 神様のご褒美 嬉しいな少し病気になって手も震えおもしろい ちょっとさびしいけれどこれでいいのね 思い上がらないでいきましょう、感謝、感謝ね”----何でもよく解釈していくと何でもよくなっていきます”毎朝お味噌汁を一口飲んではアーアおいしいというのよ”--)
 愛は謙虚である(--うめ子先生の魅力は大真面目でおかしい--本当のユーモアは本当の愛から生まれる--謙虚さの美学”ありがたいことだとわかる”--うめ先生は自分を捨てた 本当の愛と勇気を持っておられたから--)

1994/07/10 「生涯の目標」 コリント1 13:1〜13 (MP3)                        
 コリント1 13章(--愛の賛歌ではない、愛の教えである--言葉だけに反応して読まないほうがいい”歴史的な背景がある”--コリント教会の内情に対し発せられた言葉--)
 コリントの教会(--享楽的で快楽的--ありえないような不道徳的なことが平気でなされていた”自由でおおらかで活気があったと見做すこともできる”--リーダーシップを占めている人たちは豊かな人たちであった--異言”ある種の恍惚状態になり我を忘れて言葉にならない言葉を話す”--異言が語れるようになると信仰がワンランクあがり本物の信者であると見做された--パウロはどんなすごい異言を語ったってそれはだめだよ”愛がなければ騒がしいドラやシンバルでやかましいだけだ”と言った--パウロは女性たちに厳しいことを言い現代から見たら女性差別者と思われてしまうがパウロを弁護したくなる”異言のことについてのつながりの中で言っている。異言を語る人の中に女性が多かったのではないかと思っている。その人たちがリーダーシップを持っていて「こうでなければなせらない」というようにして教会を引っ張っていったのでは?”だから黙っていなさいと言ったのでは?--預言”説教であろう”神秘”神様と触れ合った経験”あらゆる知識と山を動かすような信仰があっても”愛”がなければ無に等しいといった--)
 信仰(--単細胞的ではない--命を捨てさえすればいいというものでない--イエスの十字架の死のようなものなのか動機がなんだかが問われる--愛は倫理ではない、行いばかりでもない、あり方である”being”--生き方である 愛は謙虚である”謙虚でない愛は道徳である” 人生の目標は愛の完成である”どれだけのことができたかではないどこに向かっていかに生きたかである。早死にはかわいそう、長生きはめでたいということではない” 全てを耐え、すべてを信じ”牧師にとってもとてもできることではない”が目標とする”ここに向かって生きる” 私たちが認識していることは不確かなことで全部がわからなければということは傲慢である、作られた人間に全部わかるはずがない”分からないということも受容する” 終わりの時にはっきりとわかる”完成と発表の時”いまはその途中である たのしみである--挫折は神様からの修正の時である--)
 うめ子先生に対する山田洋二監督の言葉(--こんな美しい日本人がいる まだまだ僕たちの国はだいじょうぶなんだと感動のうちに思いました--)
 佐々木 征夫さんはうめ子先生に乞われて”一日一生”と一筆書いた(--こんな私にまでも気にかけて下さっていることにあとから気が付いた--頼まれることの大事さにも気付いた--)
 うめ先生の絶筆文書(--日記”今日は佐々木さんがお仲間の方とおいで下さいました うれしなみだがでましたよ ばあさんいつまでいきてるの かみさまにおまかせしてあるからしんぱいなし あーめん”--もうすぐお別れのときよ、あら、鐘の音が聞こえるわ、みんな、みんな、みんな、みんな、よしよし、よしよし--)
 お別れの時の教え子”私は神様を信じませんと言っていた”高校生の言葉(--先生、僕は先生がうらやましいです--)
 私たちはそれぞれに与えられたように生きるしかない(--最後に--”みんな みんな よしよし”と言えるようになりたい--)
 生まれた時よりも美しく死にたい(--うめ子先生が願っていた通りにそのまま実現していた--)

1994/07/17 「結果から知る」 ガラテヤ 5:16〜26 (MP3)                      
 キリスト者の自由(--私たちは自由の身となるように召された--聖霊によって生きる--)
 聖霊(--人工的に作り出した呻きは気持ち悪い--霊の導きとは感情的に高まることではないでしょう--結果から知ることです--御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、誠実、 柔和、節制であって、これらを否定する律法はない--何かをすることではなくある状態を表す--内面からの輝きはおのずとあらわれる--)
 ”霊肉”二元論(--”霊が善で肉は悪”は福音によって生きることがぼやかされてしまう--)
 ”聖俗”二元論(--ユダヤ教の考え方で割礼を受けたものが”善”、受けていないものは”俗で悪である”--パウロはこのように分けることはできないと主張した--)
 アダムとイブは何に違反したのか(--食べた木の実そのものを問題とはしていない--本来神様の領域である善悪”結果は神様だけがご存じ”を知ってしまった--比べあうことを始めた--)
 パウロは霊肉二元論を唱えたのではない(--霊は神様が下さろうとするもの--肉”自分中心となる”は人間であるとした--)
 自分が解放されない原因を他に求めてはダメ
 藤木正三先生(京都御幸町教会)と工藤信夫先生(ルーテル神大)の共著(--「福音は届いていますか」--工藤先生は福音は心の病には効くはずだがどうもおかしいなと思っていたときに藤木先生の本に出会った。藤木先生はキリスト教用語を一つも使わずお話したのに感動した--”爽快” 「言いたいことがないわけではありません。主張しうることは十分にあるのです。でもそれを言って弁明したり、説得したりして何になりましょう。相手を無視しているわけではないのです。我慢しているわけでも、諦めているわけでもないのです。--言いたいことを言わずに済ませられない自分の心に否定しきれない捕らわれを感じるからそのままにしておくだけの話です--そのままにしておくことで味わう自分を離した爽快さを生きたいからなのです」--藤木先生「人間が全部正直になったら生きてゆけるのだろうか”全部さらけ出せるのだろうか”」--喜びについて”真の平安”「悩みなく、苦しみなく平安であることはだれしも望みます。しかし、そういう苦悩のない状態はついに来ないでしょうから平安を望むとすれば苦悩の外にではなくその内にということになります。平安とは結局、苦悩の中にとどまり続けて待つ人の中に現れる、ふと与えられる微笑のようなものです--決して長続きするものではなく、それは思い出されて人を再び苦悩の中に留まり続けしめるだけの力をもつのです」--)
 言いたいことがあったら言いなさいよということで全てうまくいくことはありません(--言いたくないという部分があればそれも受け止める--自由とは矛盾の同居です--)
 信仰は”持つ””する”ということではありません(--在る(being)ということです--)
 病んでいる人間の中にも立派な生き方をする人間がいます(--病んでいるから見えてくる世界がある--不安の中にとどまり続けることができる平安--)
 成功ばかり優先させる信仰の話であってはならない(--信仰がサクセスストーリーであったらキリスト教ではなくなる”失敗があってもいい”--あとで気が付くこと”聖霊の働き”でいい--)

1994/07/31 「固執しようとしない」 フィリピ 2:5〜11 (MP3)         
 主題(キリストの心で生きる)
 キリスト賛歌(フィリピ 2:6〜11 獄中書簡)
 「素顔の信仰生活」中央出版社(--神父さんの本音--困ったときこのようにしたら解決したという話ではない、まだ答えがないままのものがそのままつぶやきとなって書かれている--)
 証し(--自慢話になっていないか、私には証しするような体験がないからつまらない人生だと自他ともに思い込んでしまわないように--) 信仰しているから常に答えが出るとは限りません(--神様が答えて下さるベストタイミングがあります、タイミングが来るまでは分からないことがあります 答えが出ていないことをコンプレックスにしないように 気になるということは信仰を持っていることです--)
 田中弘子(--「母の死」”母の思い出”--楽しいはずの人生を苦々しく生きて死んでいった一人の女がいた。それが私の母である。お母さんは絶えずお父さんから叱られていた--お父さんから暴力も振るわれていた--お母さんが亡くなった後、いやな人生であったろうと思った--あるとき亡くなった母の声を聴いた”しっかりしなさいあなたにとって本当に大切なものは何か”お母さんのようにはなりたくないという執着にとらわれていたそこから解放された”その間はみじめさから解放されていなかった”--母や姉に対するすまないという気持ちでいっぱいとなった--私の記憶のないところで母は力いっぱい私を抱いて育ててくれたのに違いありません。そう思えてならないのです”みじめなつまらない一生であったはずがない”--母の死も姉の死”哀れにも忽然と病気で死ぬ”も犬の死も--私は涙が止まりませんでした。悲しいとともにみじめな気になりました--本を買ってきて読みましたが気持ちは晴れませんでした--気付きました”母らしくちゃんと私を抱いて育ててくれたのだ”と思えるようになった--)
 80歳の神父さん(--長いこと私はバカでした--間違いに気付いたときにこんな楽しいことはないと思った--) 気が付かない在り方(--はた迷惑です--そのままの自分でいいのだと気づくしかありません--でもそれにはタイミングがあります--)
 キリストの人生(--曽野綾子さんの評--地上最大の失敗者”みんなに裏切られて、神様にも捨てられて”ああいやだあんな風にはなりたくない--しかし、そう見える人生でも神の目から見たら貴いのだ--)
 信仰者(--こういう生涯が尊くて、こういう生涯は無駄なんだという傲慢な分け方をしてはいけない--) 柴山全慶(--臨済宗南禅寺派管長の詩--花は黙って咲き、黙って散っていく、そうして再び枝に帰らない、けれどもそのひと時ひとところにこの世のすべてを託している--永遠に滅びぬ命の喜びが悔いなくそこに輝いている--)


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