1994/04/24 「さあ、出発だ」 ヨハネ 21:1〜14 (MP3)                      
 聖書を読むときの姿勢(--教科書を読むように読んではいけない--聖書は書いた人がどのような思いで書いたのかを考えないと、とんだ思い違いを起こす可能性がある--読む姿勢によって聖典となる--聖書は原本の無い古文書--本人の直筆では残っていない。写し取られたものが残ってきた翻訳ものである--イエス様が話していたアラム語がギリシャ語に翻訳された--科学的な研究も必要となります--話の前後に矛盾する箇所があります--でもそこで引っかかって挫折してはいけません--なぜそのようになったか考える必要があります--ヨハネによる福音書は複数の人によって書かれていた--)
 右側(--神の側--) 網が破れていなかった(--すべての人が救われる--)
 何か食べるものはあるか(--”おい腹が減った”というニュアンス--イエス様は恩着せがましい方ではない--イエスは十字架の死をなじることなく、食事の用意をして待っていた。くたびれきった弟子たちに、朝食を食べて新しく出発しようということではないか--無条件の赦し”すんだことをごちゃごちゃ言われてももう戻れない”--)
 救いとは(--ある状態達したことではなく、今からの出発だということをいつも思い続けることです--あるがままの姿で--)
 横山始さん(--すい臓がんが分かってから二か月後に五十一才で亡くなる--亡くなってから八年後--奥さんが八年後こう語りました”夫の信仰の熾きが残されたものの信仰告白となりました”--遺された御嬢さんの話”過去のことに涙するだけでは神様に喜ばれない。パパは後ろにではなく前にいるのだから”--”災いが祝福となる”--)



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